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幕末から明治維新へ



ここでは幕末から明治維新へについてご紹介します。

開国と江戸幕府の滅亡

ペリーの来航と開国

ペリーの来航と開国

19世紀に、各国の外国船が日本にやってくるようになり、1853年、ペリー率いるアメリカの軍艦が浦賀に上陸しました。ペリーは大統領の国書を幕府に差し出し、開国を迫りました。幕府は朝廷や大名と協議(きょうぎ)し、翌年の1854年に日米和親条約を結び、下田と函館を開港しました。アメリカはさらに貿易を行なうために、日米修好通商条約を結ぶことを求めて、2港の他に横浜、長崎、新潟、神戸の5港を開港させ、幕府に自由貿易を認めさせました。また幕府は同じ条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結び、これを「安政の五カ国条約」と言います。しかしこの条約は日本に不利な内容を含んだ不平等条約でした。自由貿易によって経済は大きく変わり、金銀の交換比率がちがっていたことで、大量の金貨や銀貨が流出しました。

尊王攘夷運動

尊王攘夷運動

幕府が朝廷の許可を得ないまま条約を結んだことは、武士や民衆に大きな影響を与え、幕府に反対する尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)がさかんになりました。そんな中で大老の井伊直弼(いいなおすけ)は、幕府に反対した大名や武士たちを処罰しました(安政の大獄〈あんせいのたいごく〉)。その直弼も1860年に江戸城の門外で暗殺されました(桜田門外の変〈さくらだもんがいのへん〉)。幕府は公武合体策として朝廷との融和(ゆうわ)をはかりました。

尊王攘夷運動を進める長州藩は、朝廷を動かして幕府に攘夷を約束させましたが、天皇や薩摩藩の協力を得て、幕府は京都から長州藩士を追放しました。長州藩の実権をにぎった桂小五郎(かつらこごろう=木戸孝允〈きどたかよし〉)と、薩摩藩の実権をにぎっていた西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)は、坂本龍馬(さかもとりょうま)の仲立ちで幕府をたおす考えが同じであることを確認し、薩長同盟を結びました。

大政奉還

大政奉還

世の中の変化を知った15代将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、1867年に政権を朝廷に返す「大政奉還(たいせいほうかん)」を行ないました。西郷隆盛や岩倉具視(いわくらともみ)は、朝廷を動かして王政復古の大号令を発しました。こうした動きに不満を持った旧幕府の軍は、京都の鳥羽・伏見で新政府軍と争いましたが戦いに敗れました。新政府軍は、江戸城の明けわたしを行ない、旧幕府軍を北海道の函館まで追いつめて降伏させました(戊辰戦争〈ぼしんせんそう〉)。これにより260年あまり続いた江戸幕府が滅亡しました。

キーワード

キーワード
尊王攘夷運動
幕府を倒して外国の勢力を追い払うことで、天皇中心の政治への転換を呼びかけた運動。
安政の大獄
尊王攘夷運動で、吉田松陰など幕府に反対した大名や武士を大老の井伊直弼が処罰した。
大政奉還
第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返還したこと。これにより江戸幕府がほろびた。
王政復古の大号令
天皇中心の政治にもどすことを宣言し、新政府の成立を発表した。同時に徳川慶喜の政治的影響力をおさえた。
戊辰戦争
新政府に反対する旧幕府軍は、鳥羽・伏見の戦いに敗れた後、東北・北海道まで逃げ、函館の五稜郭(ごりょうかく)に立てこもるが、新政府軍に降伏させられた。

この時代の登場人物

この時代の登場人物
ペリー
アメリカの提督で、日本に開国を迫った。
井伊直弼
大老で、尊王攘夷運動で幕府に反対する大名や武士を処罰したが、桜田門外の変で暗殺された。
桂小五郎(木戸孝允)
長州藩の実権をにぎり、幕府をたおして明治維新を実現させた中の一人で、明治新政府でも重要な役職に就いた。
西郷隆盛
薩摩藩の指導者として、薩英戦争を指揮したり、薩長同盟を結ぶなど幕末から明治にかけて重要な役割を担った。
大久保利通
西郷隆盛とともに、薩摩藩の指導者として幕末から明治にかけて活躍した。明治維新後は欧米に渡り、殖産興業に努めた。
坂本龍馬
土佐藩の武士で、薩長同盟の仲立ちをするなど、倒幕への動きを支えた。
徳川慶喜
徳川家最後の第15代将軍で、大政奉還を行ない、政権を朝廷に返還した。
岩倉具視
公家の出身で、明治新政府では右大臣を務め、岩倉使節団として欧米に渡った。

明治維新

明治政府の誕生

明治政府の誕生

1868年(明治元年)江戸幕府にかわって新しい政府が誕生し、近代国家に生まれ変わるための多くの改革を行ない、その指針を五箇条のご誓文(せいもん)として発表しました。新政府は、江戸を東京に改称して首都とし、年号を明治に改めて、新しい時代の幕を開きました。これを明治維新と呼びます。新政府は、中央集権国家をめざし、版籍奉還(はんせきほうかん)によって、藩の土地と民衆を政府に返すようにしました。1871年(明治4年)には地方制度を見直して、廃藩置県を行ない、各県に県知事を任命して治めるようにしました。また天皇や皇族以外のすべての人を平等にするために身分制度を廃止し、民衆も名字を名乗り、住む場所や職業、結婚も自由にできるようになりました。一方で身分の象徴であるちょんまげや刀を持つことも禁止しました。

富国強兵

政府は欧米の国々に対抗するため、経済を発展させ、軍隊を強くする「富国強兵(ふこくきょうへい)」をめざしました。この時に行なわれた学制、兵制、税制の改革は、現代の基礎となっています。

同時に、教育の普及が日本の発展に必要と考え、1872年(明治5年)に学制を公布し、小学校から大学までの学校制度を定めました。これにより小学校が各地でつくられ、大学などの高等教育では海外の近代的な学問や技術を積極的に取り入れました。

兵制は、1873年(明治6年)に徴兵令を出し、満20歳の男子は兵役を義務づけました。

税制では、1873年に地租改正を行い、国民に土地の所有を認めた上で、土地に対する税を徴収するようにしました。

文明開化

政府の近代化政策により欧米の文化がさかんに入って、民衆の生活も変化してきました。これを文明開化と呼びます。暦も太陽暦がつかわれるようになりました。街ではレンガづくりの建物が増えたり、道路にはランプやガス灯がついて馬車が走ったりしました。印刷の普及で新聞が発行され、福沢諭吉の「学問のすすめ」や中江兆民のルソーの思想など、新しい思想も紹介されました。

キーワード

五箇条のご誓文
明治政府の基本方針を示した5つの条文。
廃藩置県

江戸時代の藩を廃止して新たに県を置き、地方自治の新しい方向をめざした。

初等教育に力を入れ、6歳以上の男女すべてに小学校で教育を受けさせるようにした。

地租改正
土地の所有者と価格を定めて地券を発行し、土地の価値をそれまでの収穫高から地価に変更した。地価の3%を税金として所有者がおさめるようになった。
文明開化
服装や食べ物など民衆の生活が欧米化してきた。