中学校情報
江戸時代の政治と三大改革
ここでは江戸時代の政治と三大改革についてご紹介します。
江戸幕府の成立と幕藩体制
江戸幕府

豊臣秀吉が亡くなると、関東を支配していた徳川家康(とくがわいえやす)が勢力をのばしました。1600年に豊臣氏の政権を守ろうとする豊臣秀頼(とよとみひでより)と石田三成(いしだみつなり)を関ヶ原の戦いで破り、全国を支配する実権をにぎりました。家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。
1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣で豊臣氏をほろぼし、幕府の力を確固(かっこ)たるものにしました。江戸幕府は約260年あまり続き、徳川家が実権をにぎっていたこの時代を江戸時代と言います。
武家の制度

幕府から1万石以上を与えられた武士を大名として、大名の領地と支配のしくみを「藩(はん)」と言いました。幕府は藩の存続や領地代えを行ない、大名の配置も決めました。政治は将軍の任命した老中(ろうじゅう)が主に行ない、三奉行をはじめ多くの役職を置いて政治のしくみをつくりました。大名は親藩(しんぱん)、譜代大名、外様大名に分かれ、外様大名は幕府の役職につくことはほとんどありませんでした。
1615年には家康が、大名の活動を規制した武家諸法度(ぶけしょはっと)を定めました。さらに将軍への忠誠を確認するため、3代将軍家光は参勤交代(さんきんこうたい)として大名の江戸への参勤を制度化しました。また朝廷を監視する京都所司代を置き、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)で、天皇や公家の行動を制限しました。
朱印船貿易

家康は、海外貿易を発展させるために、朱印状を発行し、これを持った日本船(朱印船)を保護するようにルソン、シャム(タイ)、安南(ベトナム)などに依頼しました。さらにオランダやイギリスとの貿易も始まりました。1609年には朝鮮との国交が回復し、朝鮮通信使が日本に派遣されました。通信使は各地で日本と交流し、貿易も行ないました。また、独立王国だった琉球を薩摩藩が攻め、役人を琉球に送って監督しました。
キリスト教禁止令と鎖国

キリスト教の信仰が全国に広まる中、1612年、幕府は幕領(ばくりょう)に対してキリスト教禁止令を出し、信仰を捨てないキリスト教信者を処刑しました。また、家光は1635年に日本人の渡航を禁止し、朱印船貿易も停止しました。長崎に住んでいたポルトガル人を出島(でじま)に移し、日本人と交流させないようにしました。
こうしたキリスト教徒への迫害(はくがい)や厳しい年貢の取り立てに対して、島原や天草の民衆は天草四郎(あまくさしろう=益田時貞〈ますだときさだ〉)を大将に一揆を起こしました。これを島原・天草の一揆と言います。幕府は、この一揆をおさえた後、ポルトガル人を追放し、貿易も中国船とオランダ船だけに制限しました。こうした外国との交流を制限した体制を「鎖国(さこく)」と言います。
江戸時代の産業

江戸時代には農業や様々な産業が発達しました。幕府や藩は土地を開墾したり、海や沼地を埋め立てて、新田を開発しました。農業技術の進歩で生産力も上がり、新しい作物も栽培されました。佐渡金山や石見銀山など鉱山の開発も進み、そこで採取された金や銀は、金座や銀座で金貨、銀貨になり全国に流通しました。林業や漁業も発展した他、酒やしょうゆ、磁器、和紙など、各地で特産物がつくられるようになりました。
家康は江戸幕府を開いた時に、五街道(ごかいどう)の整備を行ないましたが、これ以外にも陸や海の交通網が各地で整備され、港町や宿場町は大勢の人たちでにぎわいました。特に江戸と大坂の間には菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽廻船(たるかいせん)が定期的に行き来して、流通面で大きな役割を果たしていました。東北や北陸の年貢米を運ぶための西回り航路と東回り航路も開設され、河川を使った水運も発達しました。
キーワード

- 関ヶ原の戦い
- 豊臣氏を西軍、徳川家康を東軍とし、全国の大名がどちらかについて岐阜県の関ヶ原で争いをくり広げた。
- 江戸幕府
- 徳川家康から15代の将軍に引き継がれて、260年あまりも続いたが、その間は戦乱がなく平和な日々が続いた。
- 三奉行
- 寺社奉行、町奉行、勘定奉行を言う。
- 武家諸法度
- 大名が許可なく城を修理したり、大名同士が無断で縁組みをしたりできないよう、武士の行動や規律を記した法律。
- 参勤交代
- 大名は江戸と領地を1年おきに往復することを義務づけることで、大きな出費を藩に課し、藩が経済力を持たないようにした。
- 朱印船
- 貿易のために、幕府が発行した朱印状を持ち、海外への渡航を許可された日本の船。
- 五街道
- 東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の5つの街道
- 禁中並公家諸法度
- 天皇や公家の行動を制限した法律。
- 鎖国
- 外国との交易を制限し、日本人の海外への渡航を禁止した政策。
- 菱垣廻船・樽廻船
- 江戸と大坂を結ぶ物資輸送のための貨物船。
この時代の登場人物

- 徳川家康
- 関ヶ原の戦いと、2度の大坂の陣で豊臣氏をほろぼし、江戸幕府を開いた。都を江戸に移して現代の東京の基礎を築いた。
- 石田三成
- 豊臣秀吉の後を継いだ秀頼を補佐した武将。家康と対立し、関ヶ原の戦いで西軍を率いたが、東軍に敗れた。
- 天草四郎
- キリシタンの少年で、島原・天草の一揆の際に、大将となって幕府と戦った。
享保の改革

徳川吉宗(とくがわよしむね)が第8代将軍になった時、幕府は財政難に苦しんでいました。吉宗は武士に質素倹約を命じ、上げ米の制を定めました。また、金や銀の流出を防ぐために貿易額を制限し、木綿や生糸、絹織物の輸入量が大幅に減少しました。一方で、国内でこれらの製品の生産が始まり、輸入品と同じ製品をつくるようになりました。この他、裁きの基準となる公事方御定書(くじかたおさだめがき)を定め、庶民の意見を聞く目安箱を設置しました。こうした吉宗の政治改革によって幕府の財政難は一時的に立ち直りました。これを享保の改革と言います。
農村では、農民が作物を自分で加工して売る家内工業が発達し、問屋も農民から製品を安く買い取るようになりました。これを問屋制家内工業と言います。19世紀頃には、商人や地主が工場をつくり、人を雇って製品をつくる者も現れ、工場制手工業(マニュファクチャー)として近代工業の基礎となりました。
キーワード
- 上げ米の制
- 大名が参勤交代で江戸にいる期間を1年から半年に短縮するかわりに、1万石につき100石の米を幕府におさめることを義務づけた。
- 公事方御定書
- 奉行の裁判の基準となる法律。
- 目安箱
- 庶民の要望や考えを直接聞くために設置された意見箱。
- 問屋制家内工業
- 問屋が農民に織機などの道具を買うお金を前貸しして、製品を安く買い取るようにすること。
この時代の登場人物
- 徳川吉宗
- 第8代将軍で、質素倹約を命じたり、農業生産を奨励したりして享保の改革に取り組んだ。
寛政の改革
天明のだいききん

18世紀後半も幕府は財政難にあり、老中の田沼意次(たぬまおきつぐ)は、商工業者が株仲間をつくることをすすめたり、営業税を設けたり、銅の専売制を行なったりして、商工業の活性化によって幕府の財政を立て直そうとしました。また、輸出を拡大するために蝦夷地(えぞち)の調査や印旛沼(いんばぬま)の干拓(かんたく)も始めました。しかし、1782年に悪天候や冷害によって農作物の収穫が激減し、1788年まで凶作(きょうさく)が続きました。これを「天明の大ききん」と言います。各地で百姓一揆がおこり、意次は老中を失脚(しっきゃく)しました。
幕府と藩の財政再建

意次の後を継いで老中になった松平定信(まつだいらさだのぶ)は、吉宗の享保の改革を手本に、改革を行ないました。これを寛政の改革と言います。倹約令を出し、旗本や御家人の借金を帳消しにする一方で、農民に倉を設けて米をたくわえさせ、商品作物の栽培を制限しました。財政難は各藩にも及び、藩独自に紙幣を発行したり、家臣に与える米の量を減らしたりして対応しました。また、特産物の生産に力を入れ、専売制をとって財政を立て直した藩もありました。定信の改革は、政治批判を禁じたり、出版を厳しく規制したりしたため、民衆から反感をかいました。
キーワード
- 株仲間
- 問屋や仲買人(なかがいにん)などの大商人が、同業者の組織をつくり、幕府の許可をとって商品の販売などを独占した。
- 営業税
- 商工業者に特権を与える代わりに、税をとった。
- 天明の大ききん
- 悪天候や冷害、浅間山の噴火(ふんか)などで農作物に被害が出て、全国で数万人の人々が餓死(がし)した大ききん。1782年から1788年まで続いた。
この時代の登場人物

- 田沼意次
- 老中として、商工業を支援して幕府の財政難を救おうとしたが、天明の大ききんによって各地で百姓一揆が起こり、幕府の閣僚の反感を買って失脚した。
- 松平定信
- 寛政の改革を行ない、倹約令を出したり、米の備蓄(びちく)をさせるなど、幕府の財政難を立て直そうとした。
天保の改革
天保の大ききんと大塩平八郎の乱

19世紀になると、イギリスやアメリカの船が日本近海に現れるようになり、イギリスの軍艦が長崎港に侵入するフェートン号事件が起こりました。幕府は異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を発令し、漂流民を引き渡そうと近づいたアメリカの船を砲撃する事件も起きました。1830年代には大ききんが全国に広がり(天保の大ききん)、餓死する人が大勢出て、百姓一揆や打ちこわしが各地でおきました。大坂の大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、弟子などを集めて豪商(ごうしょう)をおそい、ききんで苦しむ民衆に分け与えようとしました(大塩平八郎の乱)。
強まる各藩の政治力

1841年に老中の水野忠邦(みずのただくに)は、幕府の力を回復させるために、倹約令を出して、派手な風俗を取り締まりました。また、政治批判や風紀を乱す出版を禁止し、物価の上昇をおさえるために株仲間に解散を命じました。これを天保の改革と言います。
忠邦は、異国船打払令をやめて、軍事力の強化をめざしました。また江戸や大阪周辺の農村を幕府の土地に使用としましたが、大名や旗本が大反対し、改革は2年あまりで失敗し、忠邦は老中から失脚しました。このころ、各藩は財政を立て直すために独自の改革を行ないました。特産物の専売制や幕府の許可を得ない密貿易などで財力をたくわえ、次第に政治的な発言力を持つようになりました。
キーワード

- 異国船打払令
- 日本に近づいたオランダ船以外の外国船を打ち払うよう大名に命じた法律。
- 大塩平八郎の乱
- 1837年に、天保の大ききんにより各地で米不足がおこり、多くの餓死者を出した中で、豪商が利益のために米を買い占めていたため、大阪奉行所の役人で陽明学者である大塩平八郎が、弟子を集めて豪商をおそった。平八郎たちは奉行所の兵に取り押さえられたが、幕府に不満を持つ民衆に影響を与えた。
この時代の登場人物
- 水野忠邦
- 老中として、幕府の力を回復させるために天保の改革を行なった。
